2010年05月07日

七転八起


 「七ころび八起き」とは、「七転八起(しちてんはっき)」ともいい、何度失敗してもめげずに奮起するの意で、人生には浮き沈みが多いことのたとえですが、七回ころんで八回起きるんじゃ、起きるほうが一つ余計になる――これはどうしたわけでしょう。(中略)
 まず「七転八倒」。これは七度もころげ八度も倒れるほどにもがき苦しむということで、つまり七とか八とかは、“数が多い”ことを表わすわけです。「七重八重花は咲けども」も同じこと。「七語八語」は、あちらからもこちらからも口を出す、意見がまちまちという意味のことば。「七花八裂」「七星八落」いずれも粉みじんになること。「七珍八宝」はいろいろな珍しいもの。「七事八事」は何やかやと用事の多いこと、「七手八脚」は大ぜいがてんてこ舞いする様子。「七上八下」は心中ああでもないこうでもないと、動揺が激しいこと。「七零八落」は、はなはだしく落ちぶれること――こう並べてくると、七とか八とかの数を問題にするのはまちがいで、「七ころび八起き」は“ころんだり起きたりを何度もくり返す”と考えるのが正しいということになりましょう。
 もっとも「七重のひざを八重に折」ってお願いすれば、その数の差が“丁重さ”を表わすことになりますし、「七尋(ひろ)の島に八尋の船を隠す」という不可能な算数が“おぼれる者はわらをもつかむ”心理を強調するわけです。とすれば、「七ころび八起き」の「起き」が一つ多いのも、屈せずに立ち直る“ファイト”を象徴していると見るのもおもしろいかもしれません。(永野賢『にっぽん語考現学』明治書院1965,pp.111-13)

 白石和良『取るに足らぬ中国噺』(文春新書2002)は、

「七転八起」の「七」と「八」は、「動作の数量」を表しているのではなく、「動作の順序」を表していると見るべきである。(p.277)

と述べているが、『数字里的中国文化』(団結出版社2000)が「七……八……」構造の熟語について「七と八を連用した成語や熟語は、多くて乱雑であることを表す」と説いていることを徴証として、「何度も転んだり起きたりすること」と解釈するのも可能(p.282)だと書いている。これは、前掲の永野氏の一番目の解釈にちかい。
 但し、白石氏が言うように、これが和製漢語であるとすれば、永野氏の二番目の(諺を引いての)解釈なども捨てがたいかもしれない。
 「孟母三遷」などもしばしば問題となる表現である。


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2006年11月19日

「辞引」

石山茂利夫『裏読み深読み国語辞書』(草思社,2001)に、「『辞引』が辞書に入るまで」(pp.99-103)というおもしろい文章が載っている(『日本語矯めつ眇めつ』でも同じことが述べられているそうだ)。これは、「じびき」の表記「辞引(き)」が、『日本国語大辞典【第二版】』に採録されるまでの経緯について書かれたものである。
同書では、石山氏自身が見つけた「辞引」の使用例として、井上ひさし『本の枕草紙』が挙げられているが、「知り合いの国語学者」(名前は記されていない)から教えられたものとして、横光利一『御身』(大正十三年)における使用例も取り上げられている。これが『日国【第二版】』の用例として掲載された。
中央公論社の校閲部長だった長谷川鑛平も、「辞引」という表記を好んで用いていたようである。長谷川鑛平『本と校正』(中公新書,1965)から以下に引用しておく。

岩波の小林勇さんと共に露伴については生辞引的存在だ。(p.88)


そんなら“Sea Gulls, novels”とすればよかったのに、なかなか辞引をひっくりかえしてもわからない。(p.105)

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(以下コメントによるご教示)
巌谷大四『波の跫音』 〈新潮選書〉 昭和四十九年十二月十日 発行
季雄は、それを辞引と首っびきでむさぼるように読みはしたが、それはお伽噺の内容の面白さに取り憑かれたからであった。(p20)

金関丈夫『長屋大学』法政大学出版局 1980年2月1日 初版第1刷発行 p5
例の長屋の隠居の話だと、近ごろの辞引には「やに下る」は得意の状態だとか、気どってすましているかたちだとか説明しているが、これらはいずれも少しニュアンスを欠いているのだそうだ。
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2006年09月07日

「異和感」の人々―百姓読み、誤字(2)

何故かしばしば、「違和感」「違和」ではなく「異和感」「異和」という表現を使う(使いたがる)識者があって、それがやや気になるときがある。以下にその二例を挙げる。

ところで、なぜ日本人は、「日本人とは」「日本文化とは」と問うのか。おそらくそれは、問う側が、日本人であることと、また日本文化に対して、異和をもつからである。異国の地で日本人に出会った時、親近感と同時に、嫌悪感をもつという意識は、この異和感に生じている。日本人であることに異和をもつということは、日本語に対して、日本人は、いくらかしっくりこない部分、奥歯に物が挟まったほどに異和感を抱いているということである。(石川九楊『二重言語国家・日本』NHKブックス1999,p.5)


ぼくはマルクス主義的な発想や党派の唱える革命論には最初から異和感があったので…(p.27)
自分が何に動かされ、何を願望し、何に異和を感じ、…(p.30)
すなわち社会にたいする異和感や正義感(中略)のありようも、…(p.33)
(以上、小阪修平『思想としての全共闘世代』ちくま新書2006より)

あるいは「異和感」「異和」というのは、そのようなタームが実在し、さらにそれを広めた人があるために、特定の世代が好んで使うようになった表記ではないかと私は考えているのだが(もちろん誤解に基くものもなかにはあるだろう)、一般的な表記はもちろん「違和感」「違和」である。しかし、この「違和感」が日本語として使用されるようになったのは、ごく最近のことであるらしい。

「いわ感」という語が国語辞典に見出し語として採録されるようになったのは、昭和五十年辺りからであり、それまでは、「いわ」という語しか見出し語としては採録されていなかった。この「いわ」も、『和英語林集成』の各版にも、『言海・日本大辞書・日本大辞林・帝国大辞典・日本新辞林・ことばの泉(本冊)』など、明治二十年代・三十年代に刊行された辞典には採録されていない。ようやく、明治四十一年刊の『ことばの泉 補遺』に至って採録されている。(中略)これまで見てきたところからも分かるように、「いわ感」と言う場合の「いわ」という語は、すべての辞典で、漢字表記を「違和」としており、「異和」としたものは一つもない。また、歴史的仮名遣いでは「ゐわ」である。(「異和」であれば、歴史的仮名遣いでも「いわ」であるはずである。)
しかし、この「いわ」から派生した「いわ感」が、新しい意味(「その場の雰囲気に浸り難いこと」「他との調和がとれないこと」「何となくしっくりしないこと」「場違いであること」等の意―引用者)を伴って日常語化し、多く用いられるようになるにつれて、誤って「異和感」と書き表す場合が目につくようになった。
(文化庁編『ことばに関する問答集【総集編】』大蔵省印刷局1995,p.168)

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(以下コメントによるご教示)
森岡健二・柏谷嘉弘・宮地裕・糸井通浩・小林千草といった国語学者が使っていますね。 柄谷行人・百目鬼恭三郎・桂米朝・鶴見俊輔 なども。 なお、『最新日本語読本』の最終頁。
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2006年05月21日

回文二、三

まずは、杉本秀太郎の「日記から」より「回文のこと」。

大槻鉄男には回文に打ち興じる趣味があった。回文というのは「力士手で塩なめ直し出て仕切り」のように、下から読み上げてもおなじ文句になっているもの。
あるとき大槻が、これは子供のころ母堂から教わったといって私に教えてくれたのは「長き夜の唐(とお)の眠(ねぶ)りのみな目ざめ波乗り船の音(おと)のよきかな」という歌だった。初夢のおまじないだという。字音の清濁を適宜加減して下から読み上げると、いかにもおなじ歌をたどり返すことができる。
大槻にはフランス留学時代以来の親友がふたりあった。ひとりは絵描きで阿部愼蔵といい、ひとりは数学者で斎藤正彦という。かれらはパリの冬の長夜を、しばしば回文遊びであかるくしてすごした。三人とも日本に帰ってのちは、大槻が東京にいってふたりに会い、または阿部、斎藤が京都にやってきて三人顔を合わせると、相変わらず三人は回文遊びをつづけていた。たとえば、ひとりが、「旅がらすはすらがびた」という。回文である。するとひとりが、すらがびたは苦しいな、やっぱり例のやつには及ばないという。例のやつとは「初期ロココの心きよし」という回文で、阿部のパリ時代の作。同時期に「なんだ、亀か、旦那」というのもあるそうな。
けさ、『海録』を読んでいると、巻二に回文の歌が録されているのが目にとまった。「をしめどもつゐにいつもとゆくはるはくゆともつゐにいつもとめじを」
(杉本秀太郎『半日半夜』講談社文芸文庫,pp.162-63)

根岸鎮衛『耳嚢』巻八より「廻文発句之事」。

文化の頃、俳諧の点者に得器といひて滑稽の頓才なる有しが、田舎わたりせし頃、奉納の額に梅を書て、お徳女の面かきしを出して、「是へ讃せよ」と申ける故、「一通にては面白からず」と、即興に廻文の発句せし。
めむのみかしろしにしろしかみの梅
(面のみか白しに白し神の梅―引用者)
達才の取廻しともいふべきか。
(根岸鎮衛 長谷川強校注『耳嚢(下)』岩波文庫,p.59)
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2006年02月13日

「用いる」の假名づかい

「もちいる」の旧かな(正かな)づかいについて。
たとえば、『新式 國語假名遣便覽』(寶文館)という本(明治四十一年刊)を見てみると、

もちゐる 用(もちひるトモ書ク)(p.3)

となっている。
しかし、最近の府川充男・小池和夫『旧字旧かな入門』(柏書房)は「もちゐる」のみ正用とし、青木逸平『旧字力、旧仮名力』(NHK生活人新書)にも、

ワ行上一段活用の動詞は、この「居(ゐ)る」「用ゐる」の二語と、「率ゐる」がおもなもの。「ゐる」は「…してゐる」のかたちで常時使われるし、「ゐてもたつてもゐられない」「ゐずまひを正す」などさまざまなかたちで言葉にはいりこんでくるので、つねに気くばりが必要。(p.149)

とあり、「もちゐる」のみ正用とする。ではなぜ、かつては「もちゐる」「もちひる」のいずれも可、ということになっていたのであろうか。
これについては、大槻文彦『復軒雑纂』が示唆を与えてくれる(私が参照したのは平凡社東洋文庫版、鈴木広光校注『復軒雑纂1 国語学・国語国字問題』。以下の頁数はこれに対応)。
このなかに、「モチヰルといふ動詞の活用」(初出:洋々社談八十三号,明治十五年二月)という文章があって、そこには、

新年の雑煮餅食ひつゝも、彼の俊頼朝臣の歌の「我をもちひのますかゞみ」又は仲正が集の「祝ふ鏡のもちひざらめや」など思ひ出でゝ、モチヒ(餅)モチヰ(用)の仮名づかひの事を好める道とて、とかう考ふるも傍人に取りてはをかしかるべし。此活用の事は語学家の間に論ありて一定しがたかりしに、此洋々社談の某号に榊原芳野大人の弁出でゝより我も人も争ふべくもなく思はれしに、(中略)此頃ゆくりなく村田了阿の俚言集覧にも此活用の事委しく挙げていとゞその疑ひなきを知りたれば、榊原ぬしの考への続編として世に亡き霊を慰めむとす。(p.103)

とある。以下、契沖『和字正濫鈔』の本文、ならびに諸家の説を挙げている。それによれば、契沖は「ワ行」活用の動詞と看做していたようで、賀茂真淵・谷川士清・(まあ当り前なのだが)楫取魚彦らはこれに随っているという。しかし、本居宣長は『源仲正家集』に拠って「もちひる」を正用とする。
大槻は、宣長説を「本居氏の此仮字いかゞあるべき。いかんとなれば、モチヰは持と以との二語にて一語にはあらず」(p.104)と一蹴する。彼は、その根拠を『日本書紀』ならびに仏書に求めているのだが、詳細はここに述べない。
さらに大槻は、定家仮名づかい等を論難したうえで、

但しモチとヰルとを二語と定めたる上は、終始の体は尚ヰルの活用に随ひてモチヰルとすべきにこそ。(中略)和行に中二段活用(上二段活用のこと。―引用者)は無くモチヰル ツキヰル ヒキヰル、皆一段活用と断定すべきなり。(pp106-07)

と結論するのである。
さて、築島裕『国語の歴史』(UP選書,1977)の pp.115-120 も、「もちいる」について詳述している。以下に、一部引いておこう。

動詞「モチヰル」は、古くワ行上一段活用であった。この語は、奈良時代には用例が無く、平安初期に入って、訓点資料の中で初めてその例が出て来る。最古のものは、聖語蔵の、「阿毘達磨雑集論」の、九世紀のはじめ頃の訓点で、「須」に「毛知ゐ弖」と仮名付けがある。(中略)「ゐ」と「ひ」と「い」との区別があった時代であるから、これらの例によって、モチヰルがワ行の活用であることが確認出来るが、これだけでは上一段か上二段かは確定出来ない。上一段であることが確に知られるのは、少し時代が下るが、興福寺蔵本の「不空羂索神呪心経」の寛徳二年(一〇四五)訓点に、「用」を「モチヰルに」「モチヰルこと」と訓じた例による。(中略)連体形が「モチヰル」であるから、上二段活用ではなくて(上二段なら「モチウル」とある筈)上一段活用であることの証拠にはすることが出来る。かようにして、「モチヰル」が古くワ行上一段活用であったことは、疑無いところである。(pp.116-17)

なお築島氏は、アクセントの観点から、従来の「もちゐる」=「持ち率(ゐ)る」という語原説を証明している。「もちふる」「もちゆる」等の類推形も、鎌倉期の訓点資料に多く見出せるという。
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2005年11月19日

憎しみ合う

この記事に関連する問題。
『松本清張特別企画 喪失の儀礼』(テレビ東京系列,2003.12.3放送)に、うろ覚えだが(手許のメモがいいかげんなものなので、再放送時に確認しようと思っていたのだが、ついに出来なかった)、次のような台詞がある。

美奈子さん、私たち、憎しみ合った姑と嫁になりましょうね。(萩原和枝=泉ピン子)

「憎しむ」という動詞はないから、「憎しみ合う」なる複合動詞もないはずだ、と思った記憶がある。その後、高島俊男『お言葉ですが…5 キライなことば勢揃い』(文春文庫,2004)の「あとからひとこと」(単行本化の段階で追加された記事)によって、同じことを考えている方があるのを知った。
それは武蔵野市のTさんで、著者に寄せた「キライなことば」リストに以下のようにあるという(二行目は、高島氏の感想である)。

憎しみ合う―「憎しむ」なる動詞はない筈。
なるほど。連用形だけがある、というマカ不思議な動詞なのですね。(p.82)

ところで、読売新聞校閲部『学生・社会人のための日本語再入門』(PHP研究社,2000)に、同じ指摘がある。

(「ぬかるむ」と―引用者)同じような作られ方をしたと思われるのが「憎しみ合う」だ。この言い方が成り立つためには「憎しむ」という動詞があることが前提になるが、こんな言葉はワープロで打っても出てこない。普通使われるのは「憎む」だ。これも「憎しみ」という動詞があるため、そこから「憎しむ」などという形の動詞を作り出したのだろう。(p.209)

また、福田恆存・宇野精一・土屋道雄編『崩れゆく日本語』(英潮社ブックス,1975)にも、似たような指摘がある。

憎しみ嫌った
『自由』(四九・一〇)三八ページに「この事件を利用しようとする民主主義者や共和主義者を、彼は憎しみ嫌ったのである」とあるが、「憎しみ嫌う」という言い方はおかしい。「憎しむ」という動詞があるなら、「蔑む、親しむ」という動詞が「蔑み嫌う、親しみ交わる」と言えるように、「憎しみ嫌う」と言えるわけだが、「憎しむ」という動詞はない。「憎しみ」は名詞であるから、それに直接「嫌う」をつけることはできない。が、幸い「憎む」という動詞があるから、「憎み嫌った」とすればいいわけである。
(p.38-39,土屋道雄)

「憎しむ」という動詞はない、とあるが、本当だろうか。結論をさきにいえば、実は存在する。新村出編『広辞苑(第二版)』(岩波書店,1969)は、「憎しむ」を「四段活用の他動詞」として(口語の「五段活用」という考え方は採っていない)すでに採録しており、「にくむ。」とだけ説明を附している。用例もなく、実質的に「空見出し」であるといってよい。
ここ(http://dslender.seesaa.net/article/1603114.html)には、『広辞苑』は「憎しむ」を古語扱いで載せている、と書いてあるが、何版のことを言っているのか分からないし、なぜ「古語扱い」と判断されたのか、その根拠も不明である。
『日本国語大辞典(第二版)』(小学館,2001)はもちろん「憎しむ」を採録していて、別に立項している「憎しみ」を、「動詞『にくしむ(憎)』の連用形の名詞化」と判断している。
そして、この『日国』は「憎しみ」「憎しむ」の最古例を、ともに『武道伝来記』(1687)から拾っているのだから興味ふかい。
名詞「憎しみ」は、「悲しみ」「楽しみ」などからの類推によって生れた語であると思っていたのだが、話はどうもそう単純でないらしい。
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2005年10月29日

辞書にはない言葉(2)

辞書にはない言葉、と限定したので書きにくくなってしまった。
用例のあまりない語、とでもしておくことにしたい。

・ゆうめいかい【幽明界】

そして彼を識る人々が一人ずつ死んで行くにつれて、彼の生きる幽明界は次第に狭くなり、最後の一人が死ぬと共に、彼は二度目の、決定的な死を死ぬ。
(福永武彦『草の花』新潮文庫,p.125)

表記の異なる「幽冥界」であれば、『日本国語大辞典(第二版)』(小学館,以下『日国』)が採録している(透谷の用例などを載せる)。「幽明界」は「幽明、界を異にする」から生れた語に相違なく、これは「切り方が問題」と関連するものであろう。また、「幽冥界」「冥界」との類推もあって生れたのかもしれない。機会があればさらに調べてみたい。
リンク先を参照のこと。→http://kotobakai.seesaa.net/article/8173681.html

・けんじん‐てき【嫌人的】

その声が、孤独に住みなれた私の心をたちまち嫌人的な感情へと追い込んで行くのを、私は寂しく眺めねばならなかった。(高見順『今ひとたびの』河出文庫,p.175)

「けんじんてき」は、『日国』にある。面白いことに、高見順『故旧忘れ得べき』から用例を拾っている。
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2005年10月20日

辞書にはない言葉(1)

しゃほう‐てき【社宝的】

「よろしい。僕は、これでもひそかに君をわが社の社宝的存在だと思っているんだからな。」
「社宝的な存在ですって?」
「そうさ。」
(源氏鶏太『私にはかまわないで』集英社文庫,1978,p.105)

私が調べたかぎりでは、「社宝」という言葉を採録している辞書もなかった。
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2005年10月01日

漢字ばなし(3)

今回は、通俗字源のはなし。

たしかに、字引というのは、引くものだ。「あっ」とおもわず声の出ることもある。
私は、新仮名・新漢字でいいとおもっているが、もうずいぶん昔にこういうことを書いた。
『新漢字は覚えやすいように字画を減らすのだが、「戻る」という字は旧漢字のほうが覚えやすい。遠くの土地に犬を置き去りにしても、何日目かには戻ってくるという話をしばしば聞く。「戸」の下に「犬」という字を書いたほうが、「戸」の下に「大」よりはるかに納得がゆく』
それから何年目かに、漢和辞典を引いて驚いた。
この字は、犬がもどってくるのではなく、飼犬が戸の下から這い出すことで、「裏切る」の意だとわかった。家の中から逃げ出して、どこかに行ってしまうのである。
(吉行淳之介「郷里からの手紙」1988.9,文藝春秋編『達磨の縄跳び おしまいのページで2』文春文庫,1997所収p.86-87)

本項には関係がないが、この本に収めてある吉行淳之介「パンダの名前」(1987.3)p.48-49は、「パンパン」についての話である。
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2005年09月25日

パンパン

「パンパン・ガール」なる言葉を知ったのは、松本清張『ゼロの焦点』によってであった。しかし、当時はその意味を知らなかったので、「パンパン」に対する周囲の反応がよく理解できずにいた。
この言葉には、様々の語源説があって定説はないらしい。まずは、例えば次のような説。

闇市といえば闇の女、パンパン、あれはどうしてパンパンというかと申しますと、まだ日本が戦争に勝ちまくっていた頃、南方の島に上陸した水兵さんたちに島の女性たちがパンをくれパンをくれと寄ってきたのが始まりだそうで、こういうことは学校じゃ教えませんけれど――。(結城昌治『終着駅』講談社文芸文庫,2005。p.30)

登場人物・峰倉徳夫による落語、そのマクラの部分である。
ところが当初は、「パンパン」と「闇の女」は明確に区別されていたようで、「パンパン」は進駐軍相手の女性をさし、「闇の女」は日本人相手の街娼であったという(三橋順子「パンパン」―井上章一&関西性欲研究会『性の用語集』講談社現代新書,2004。p.297)。
さて三橋順子「パンパン」は、その語源について、以下のように諸説を挙げている。

パンパンの語源については当時から諸説があった。粋で優美で人目を引くという意味のパンパント(Pimpant)というフランス語からきたという説、横須賀の海軍工廠で雌型と雄型で金属を打ち抜くパンパンという音から性的行為が連想されたという職工用語説、兵士が娼家の表戸を手で叩く音からという説、空腹の女性が性的サービスの見返りにパンを請うたことからという説などなど。中には、街に立つ娘が男に「こんばんは」と呼びかけたことから「コンバン娘」→「パンパン娘」と転訛したという珍説もある。
現在、通俗的なのは、インドネシア語のプロムパン(女)の訛りでアメリカ軍兵士が日本に持ち込んだという説のようだが(『広辞苑』「現代風俗史年表』など)、なぜインドネシアなのだろうか? アメリカ軍の日本進行ルートとは一致せず、私には疑問である。
これに対して、パンパンが街に見られた当時、最も有力だったのは、買売春の社会的研究に多くの業績を残した神崎清が紹介した説である(「パンパン語源考―サイパン島が発祥地―」『座談』一九四九年七月号)。
それによれば、第一次世界大戦の時、ドイツ領だったサイパン島を占領した日本水兵が現地のチャムロ族の女性に性的サービスを要求する際に「パン、パン」と手を叩いて呼び、日本の委任統治領となった後、同島では娼婦を「パンパン」と俗称した。太平洋戦争末期の一九四四年七月、アメリカがサイパン島を占領した後に、「パンパン(娼婦)」という言葉は、アメリカ軍の兵士用語となって日本に持ち込まれたとする。(p.299-300)

最後に挙げられている語源説を、もっと早く紹介しているのが末松和夫「パンパンの門」(『ネオ・リベラル』創刊号・一九四七年十二月刊)で、その小文には次のようにあるという。山本明『カストリ雑誌研究―シンボルにみる風俗史』(中公文庫,1998)の「パンパン それ自身が風俗として」から、孫引きしておく。

「……そもそもパンパンの語源を、パン二コで貞操とかえる意味などと説明する向きもあるが、あれは南方帰りの純日本語であって、前大戦当時、南洋諸島を占領した日本海軍が、椰子林を切りひらいて軍用ハウスを作り、内地から娘子軍を呼んであの方の士気をふるわせた時、そっと椰子の木から覗いていた島の黒いアンちゃん連中が、軍人が手を叩いて女が来て実演する経過をよく研究した結果、手を叩く音によって女の方の性慾が昂進して駆けつけて来るものと想像した」。(p.186)
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